10月9日(日)蓮池薫さんの講演会に参加しました。
今回は、講演会に参加したおさむからのレポートを記事にします。
1978年7月31日の夕刻、里帰りしていた当時大学生の蓮池さんは新潟県柏崎市の海岸で現在の奥さんである彼女とともに、5人の北朝鮮工作員によって拉致された。
なぜ拉致されたのか何もわからない。ただ、わかったことは自分の夢と家族や友人との絆を絶たれたという事実だけだった。
拉致されて数年は、一緒に拉致された彼女とは別々に収監されており、お互いに彼女は(彼は)日本に返したと説明されていた。
ところがある日突然、彼女と結婚するように言われる。その当時、工作員として拉致されていたレバノン女性が大使館に逃げ、北朝鮮拉致問題が国際的に問題になったことが引き金だった。
これ以上、逃亡者と出すわけにはいかなかった北朝鮮の苦肉の策が、蓮池さんの結婚と結びついた。要は、北朝鮮で家族を作り、腰を据えさせるといった思惑だったようだ。
結婚当初は子供を作る事を禁止された。新婚生活の中にも常に監視が置かれた。しかし、また政治的な思惑の中で子供を作ることを許される。
子どもが生まれ、3歳くらいまではただただ子どもがかわいい。監視下に置かれながらもそのことは日本と何ら変わりはない。しかし、問題はその先わが子をどのように育てていくかだった。
絶対に日本語は教えなかった。もし、日本語が堪能になれば、将来的にわが子が工作員として利用されるかもしれない。子供には親戚はみんな死んだと説明した。
日本にいるなんてことがわかり、それを子どもが周りに話すようなことがあれば、敵国の子どもであると様々な面で迫害を受けることは分かりきっていたからだ。蓮池さんは自分自身の夢だけでなく、子育ての夢、子ども自身の夢も奪われた。
ある日、監視員とともに家族でピョンヤン市内をドライブしていたところ、日本のTVクルーがいることに気付いた。カメラに向かってレポーターがピョンヤンの様子を伝えている。監視員は気づいていない様子。今、車を飛び出して、自分は蓮池薫だ。拉致被害者だと訴えたらひょっとしたら日本に帰れるかもしれない。そう思うと血が沸騰するような思いだったそうだ。しかし、冷静に考えるとTVクルーは秘密警察が監視しているはずだ。テープは没収されるはずだ。何よりも子供たちも含めてひどい制裁をされることは分かり切っていた。とうとう車を降りることはできなかった。
さまざまな生々しいエピソードに対するつきまとうのは、「もし、自分がそうなったら…。」という気持ちだ。
蓮池さんは10代の若者によく問いかけるそうだ。
「部活、趣味、ゲーム、家族とのだんらん…。ほんの少しの時間でもいい。自分の楽しいことが一つ残らず全て奪われる状況を考えてほしい。拉致被害者の気持ちが分かると思います。」拉致被害者は完璧に洗脳され、北朝鮮で幸せに暮らしている…。そんなことを少し考えたことがあった。今回の話を聞き、絶対にそんなことはないとわかった。今でも残された拉致被害者は朝を迎えるたびに自分の状況に絶望し、毎日、日本へ帰る事を願っているのだろう。
僕は運営側としてお手伝いしました。
蓮池さんの壮絶な経験と自分の人生を照らし合わせ、
僕の人生はなんて幸せな人生だろうと再認識しました。
「夢」と「人との絆」
この二つをずっと大事に生きて行こうと思います。
出典元:山口商工会議所青年部