「わかった!」という感想と、「できる!」という能力は、別物です。
まず今一度、壊しておかねばならない先入観から確認します。それは、「わかった!」という感想と、「できる!」という能力は、別物だということです。
仮に問題の解き方が「わかった!」としても、それは同時に「できる!」という能力値の向上までは意味しない、という話ですね。
これは言われるまでもない自明のことにも思えますが、こと勉強になれば、不思議なほどにこの感覚が抜け落ちます。僕自身、油断していたら、すぐこの落とし穴に落っこちることからも、身に染みて感じますね。
さて。この二つが別物だということは、スポーツを例に考えると、わかりやすいかもしれません。ある技を得意とする選手が、その技を行う際に心掛けている点や、コツを、言葉と動作で教えてくれる動画を、一度は見たことがあるのではないでしょうか?
確かにその動画を観ることで、その選手が考えていることはわかります。しかし、それを即座に再現できるかどうかでいえば、直感で無理!と思われるのではないでしょうか。
プレミアムリーグで活躍するサッカー選手のシュートの秘密を、ただ動画を観ただけで再現できれば、その人はプロにスカウトされること、間違いないはずです。なんというか、ちょっと考えればすぐにわかる、アホくさい話です。
しかし、繰り返しますが、勉強となると、この罠に嵌る生徒が後を絶ちません。「わかった!」という感覚は、むしろはじめの第一歩であり、そこからの学習が無ければ、お互いに時間の無駄になるというのが本当のところなのに・・。
さて。今回は科学的なアレコレを全部取っ払い、具体例で説明してみました。ちなみに、こういったメンタルのところに興味がある方は、【認知バイアス】という言葉を検索されることをオススメします。
・・・では、この認知の存在がわかったところで、それにどう手を打てばいいのか?これについては、こちら側が意識すべきこと、そして生徒側が意識すべきこと、別々に存在します。
”「わかる」→練習する→試行錯誤する”
まずは、教える側の心掛けとして、目の前で同じ問題を解かせるか、説明させるかして、必ず再現させることが大事です。すると、大抵は間違えます。あるいは、できてもたどたどしいです。
その様子を見て、その生徒の思考のクセや、間違えて理解している部分、それが不十分なところを探り、改めて指導を入れること。これがとても大事ですね。
言葉にすると難しいですが、やはりスポーツで考えるとわかりやすいです。大抵どのコーチも、何かしらの技術を教えたら、実際に選手へそれをさせますよね?
そして、例えば「今のは上半身が傾き過ぎだ」とか、「もっと胸郭を広げるよう意識しよう」といった風な声掛けをする場面も、想像に難くないのではと思います。
正直、勉強もそれと同じです。「今のは途中式を忘れているよ」とか、「文法の考え方を少し勘違いしているよ」といった風な点には、講師であればすぐに気が付くかな、と。それをガンガン伝えましょう。
つくづく、僕は講師と生徒の関係性は、教える・教わるというものではなく、コーチと選手のようにあるべきだと感じているのですが、その理由はこの辺にあったりします。
―さて。では、生徒の側で、気を付けるべきことはなんなのでしょうか。正直、難度はこちらの方が高いです。この辺が意識できる生徒は、それだけで偏差値60くらい届くのではなかろうか、と。
―それは、「このわかった感は気のせい」という問いかけを自分にすることです。僕自身も、「知ってる、わかってるー」という感想を自分が抱くたび、この問いかけをするよう心がけています。(職業病ですね)
その上で、例えば模試の解答・解説を一読したら、すぐにそれを再現できるか試してみる。これだけでも、全然違います。ちなみにこれ自体、「解答復元練習」という一つの学習法ですね。
実際に、人間の記憶力の適当さを、簡単に実感していただきましょう。
僕がここまで書いてきた話を、
一旦手を止めて、
できるだけ思い出してみてください。
・・・恐らく、よくて二行程度の文言しか思い出せなかったのではと思います。
これは記憶力云々ではなく、そもそも人間の脳が、それくらい無意識下で、情報をカットしているということです。
それなのに、「もうわかった」という感覚を抱かせるので、厄介なものです。
脳のこの性質を理解したうえで、「ではどうするか」を考えること。
これが教わる側の巨大な課題だと感じます。
・・・ということで、高校生は中間テスト真っ最中の折、少し冷や水をぶっかけるような内容でしたが・・。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!