"問い"から始めて、終わらせない。
今この時点で本が手元にないため、うすぼんやりとした記憶頼みなのですが・・・。
この本のテーマは【観察】です。そこだけ切り取れば、例えば夏休みの自由研究で人気な生き物の観察といった例文が皆様も浮かんでくるのではと思います。(僕もそうです)
しかし、【観測】とも【視察】とも違う、【観察】の意味するところは何なのか。ここを紐解くのは、実際かなり難しいです。
ちなみに、この部分についての説明に当たる箇所は、実は丸ごと載せられています。ということで、それを引用してみましょう。
いい観察は、ある主体が、物事に対して仮説をもちながら、客観的に物事を観て、仮説とその物事の状態のズレに気づき、仮説の更新を促す。
一方、悪い観察は、仮説と物事の状態に差がないと感じ、わかった状態になり、仮説の更新が止まる。
観察は、問いと仮説の無限ループを生み出すもので、その無限ループ自体が楽しいものであるため、マンガをはじめとする様々な創作の源になりえる。
「観測」は、観測自体が目的になるが、「観察」は自分で見つけてしまったがゆえに解きたくなる「問い」とセットでモチベーションになりえるのだ。
・・・どうでしょうか?僕はこの部分で一度完全に立ち止まり、数秒考えて、頭の中で「こういうことか?」という例をいくつか考えて、やっとぼんやり言っていることがわかった、かも・・・という段階です。
さて。ウスターソースに浸った豚カツより濃厚なこの本を読み切ったあと、僕は”あること”をまずは「やってみるか」と決めました。
それは、【ディスクリプション】と呼ばれるレクです。これは何かというと、ある対象について、目に見えるものをなるべく客観的に、淡々と、独り言のように説明するというものです。
言葉による説明だけでは非常に分かりにくいので、実際に一例を紹介してみましょう。
実はお盆休み唯一の外出として、本当に何の気なしに高校の同級生たちと広島県立美術館に行ったのですが、そこである絵が僕の心に留まりました。それは南薫造氏の「ピアノ」というものです。
https://www.facebook.com/tokyostationgallery/posts/3775223595877852/
これをディスクリプションすると、こんな感じです。
画面の中央で、女の子がピアノを弾いている。奥にも少女が一人いて、手を見ている。ピアノの上には皿や像が置かれており、手前の机にはリンゴやコップが並べられている。
全体的に柔らかい雰囲気で、窓から明るい光が入り、特にカーテンを照らしている。
という風に、淡々と情景を説明するのがディスクリプションですね。本当はもっと長々とできるらしいですが、僕の技量では現在これが限界です。
最初は、「品の良いお嬢様が、教養の一環として習っているピアノを練習している風景」という感じで捉えていたのですが、絵の説明として添えられた一文を見ると、驚いたことに、僕の中で印象がガラリと変わりました。
穏やかな画面の中で、片足の履物を脱いでジタバタさせているような少女の仕草がユーモラスです。
―これを見ると、確かに足元がぶらぶらしているのがわかります。途端に、「実は習い事という感覚ではなく、楽しいからピアノを弾いている情景なのでは?」「きっと見えない表情もイキイキとしているのでは?」という風に、見え方ががらりと変わりました。
すると、さらに”問い”がどんどんと生まれます。「奥の少女がいることで、どういう印象の違いがあるのだろう?」「光の使い方にも工夫は無いか?」「机の上のリンゴは何を暗示しているのか?」という風に。
―こういう風に、"仮説"と"問い"と"検証"をグルグルと回し、それがまた新たな"問い"へとつながるようなループこそ、【観察力】の本質なのだというメッセージを、暫定の話ですが、僕は感じています。
あらゆるものに、意識して改めて"問い"を向ける。すると、今まで教えてきて読み込んできまくったはずの作品も、また違った魅力をまとって目に映るようになりました。
今、僕の頭の中は小3の子どもみたく”なぜ?”でいっぱいです。何かがわかっても、それが別のわからない何かを生む。今はこの遊びに熱中している気分です。
―そういえば、この本を読んでから、今までと印象がガラリと変わった言葉があります。それは、【論語】の一節です。
学びて時に之(これ)を習ふ、亦(また)説(よろこ)ばしからずや
この言葉については、「学んだことを反復練習する。すると、どんどん身に付いてくるから、非常に楽しいことではないか」という意味だと思っていましたし、生徒にもそう伝えてきました。(ワークの模範解答でもあります)
しかし今は、「そんなに浅い意味ではないのでは?」と考えておりまして、実際のところは、「たとえ一度学んだことであっても、新たな"問い"をもって再度向き合えば、新しい発見と問いを得られる。これこそが学習の本当に面白いところではないか」という教えだと感じています。
わかることは確かに心地よいですし、わかればテストの点も上がることから、その状態が無条件にいいものだと思う気持ちもわかります。
しかし、わかる状態を意識的に脱して、「なぜ?」という"問い"を恐れずに持ち続けることこそ、わかることより大事なのではないかなと、この本を読んで考えさせられました。
講師という立場上、僕らは”わかっている”ことが求められますし、正解を伝えねばなりません。「わからないから一緒に考えよう」なんて言ってしまえば、それこそクレームものです。
とはいえそこで折れずに、どうにかこうにか、「知らないことを知る」以上の学びの面白さというのを、日々少しずつ言葉にして、生徒に伝えていけたらなと思います。
・・ということで足掛け3000字、感想文なのかなんなのか一読すると不明瞭な記事になりましたが、これもまた誰かの"問い"になればということで、推敲せずこのままにしておこうと思います。
それでは、ここまでお読みいただき、ありがとうございました。