ポール・ミラー氏
2012年5月1日から、一年間完全にインターネットから離れた生活を送ってみました。
私が26歳の時でした。それをしたのには多くの理由がありますが、
主な目的は、26歳でしたし人生の方向性に悩んでおり、
すべてのことがもう手に負えないように感じていたからです。
インターネットから常に情報が流れてくる、メールはひっきりなしに届く、
Twitterでは常に何かについて議論されている。
個人的にインターネットが手に負えなくなっているように感じ、
インターネットに負かされている、抑圧されているように感じたのです。
もちろん私はそれまでインターネット中心の生活を送っていました。
12歳のころからインターネットを使い始め、
以来起きている時間のほとんどネット上にいるような状態でした。
私は10代の頃からウェブデザインをしており、
20歳からテクノロジーについて記事を書くジャーナリストとして活動をしていました。
つまり私はインターネット無しの生活がどんなものか、
常に世界と繋がっていることなく、
メールが届くこともない生活がどんなものであるか知らなかったのです。
Twitterが誕生する前の時代の記憶はあまり鮮明ではありません。
私にはやるべきこと、例えば個人的に学びたいこと、読みたい本、執筆活動、
後回しにしていたプロジェクト等に費やす時間を持ちたいという願望もありました。
私の起きている時間すべてを占拠するインターネットをやめれば、
その時間は自分の達成したいことに取り組むために自由に使えるのだ、
と考えインターネットをやめた訳です。
こういった個人的理由以外に、
インターネットがいかに私を消費していたか、
私がどのようにインターネットを利用していたか、
私の決断とゴールはどの時点で私のインターネット上での行動に影響を与えたのか、
インターネットがいかに私自身の行動を変えたかを知ることにも興味がありました。
90年代中頃、
「Wired Magazine」の創刊やMITメディアラボを創立したニコラス・ネグロポンテが
ウェブ時代初期に、Webサーフィンとは生きることとは別であり、
Webをした後は生産性ある大人の生活に戻るのだ、
子供は長時間Webサーフィンをすることができるかもしれないが、
社会で生きる大人がそうであってはならない、
というようなことを書いていましたが、彼はまったく間違っていました。
インターネットでウェブサーフィンをする、これは今の時代誰もがやっていることです。
彼の言っていることはある一部の人には当てはまるのかもしれませんが、
私自身はインターネットをしていると生産性が下がると感じていました。
先ほど私は執筆をしたい、本が読みたいと言いましたが、
長時間インターネット上にいてTwitterをやったりして、ものすごい量の情報を処理していると、
達成したいと自分が願っていることができないのです。
インターネットを長時間やることによってステップアップするのではなく、
自分が本当にやりたいことからどんどん離れていきました。
自分の生産性がどんどん下がっているように感じたのです。
両親のインターネットの利用法と自分のそれを比べてみると、
彼らはインターネットを役に立つ方法としてとらえており、
Amazonで買い物をしたり、「最近なぜ連絡をしてこない?」と私にメールを送ったり、
母はTwitter、父はInstagramをやっていたりします。
彼らにとってネットとは必要なことをするための人生の小さな一部でしかありません。
私はネットと共に育ったからか、オタクであるからか、
自分をコントロールするのがヘタなのか、ネットなしには生きていけませんでした。
人生の他のことがインターネットをする合間合間に入り込んでくるような感じです。
スマートフォンに釘付けの目を少し上げるとそこには人がいて、
あ、まだここに人がいると安心し、またスマホに目を戻し、
私が属するインターネットの世界に戻るのです。