靖国神社の遊就館に行ったとき、
数ある展示物の中で最も心を惹かれた
ものがありました。

それは、一通の「ラブレター」。

その頃は「恋文」と
いったのでしょうか・・・。

その文章が、あまりにも愛らしく
感動的だったので紹介します。

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その恋文は秋田県の二ツ井町が、
1995年に主催した、
「第1回日本一心のこもった恋文」
コンテストで大賞に輝いていました。

作者は”柳原タケ”さん。

柳原さんは当時80才(実は81才)で
秋田市に住んでおられました。

深く調べていくと、佐藤緋呂子さん
という日本画家のホームページに
たどり着きました。

佐藤さんは柳原タケさんの
お嬢さんです。

佐藤さんと柳原タケさんは、
二ツ井町からのご褒美として
アメリカへ旅行に行きました。

佐藤さんは、そのときの飛行機の中で、
子どもの頃の父の思い出を
つづっています。

27歳の母を残して

父、淳之助はわたしが生まれて
100日目に召集令状がきて出征し、

その3年後に27歳の母を残して
戦死した。

享年32歳だった。

父は亡くなる2ヶ月前の2月、
わたしがもうすぐ3歳になる頃、

中国北支山西省から一時帰国し
一日だけ秋田に帰ってきている。

わたしはその日のことを
不思議な出来事として
心の奥にづっとしまい、

しっかりと記憶していた。

物心ついて父に逢った、
たった一度だけの日のことを。

祖父が経営していた
『はかりや印刷所』の従業員の人々が
気ぜわしく動き回り、

祖父母、叔父叔母、そして母が
その日は『そわそわ、ざわざわ』
していた。

浮き立つような空気の中、
その人『父』は現れた。

わたしにとって『父さん』という
意味がわからないまま、

みんなが『父さんだよ』という
切羽詰った言葉の中に、

とっても『大事な特別の人』なのだ
ということをつよく感じていた。

眼鏡をかけ、髭を生やしたその人は
少し恥ずかしそうに

『おいで・・・・・』

と両手を差し伸べた。

わたしは固くなって
『抱っこ』された。

翌朝、雪の中をカメラを構えて
叔父(洋画家・柳原久之助)が
待っていた。

着物姿の父が両手を差し伸べたのに、
わたしは母にしがみついたまま、

その写真のなかにおさまってしまった。

父は差し出した手を袖の中に組み、
わたしは気にしながらも
母の腕の中にいて、

そして一枚の親子の写真が残された。

それからずっとわたしは
『悪いことをした』という思いに
胸を痛め、

5歳になるまでそのことを
悔やみ続けていたのだった。

5歳になったある日、
母と上京し皇居二重橋の前で
大勢の兵隊さんたちに出会った。

その中でひときわ目立って
凛々しい兵隊さんが振り向いた。

『おいで・・・』
と手招きしわたしに両手を広げた。

(アッ、今度こそは笑って『抱っこ』されよう・・・)

あの時の人ではないと
直感しながらも

わたしは思いっきり走り、
勢いよくその人の胸の中に
飛び込んだ。

いままでのわだかまりが消えて
心がスーッと晴れていくのを
全身で感じていた・・・。

その人は父の隊長、
杉山元 その人だった。

それは父の戦死から2年後
母はまだ30歳の若さだった。

「恋文・旅の画帳 マディソン郡の橋 そしてニューヨーク」より。

こんなエピソードは戦後、
日本にあふれていたのでしょう。

帰らぬ夫、帰らぬ父・・・。

話を本題の「恋文」に戻します。
 

戦争中、戦地の夫へ出す郵便には
検問がかかったそうです。

タケさんの当時何度も書こうとした
夫への思いが、この手紙に溢れています。

タケさんは、この恋文を書く前、
脳梗塞で倒れ、病に伏していたそうです。

当初は手が思うように動かず、
リハビリをがんばりながら
ようやく鉛筆が持てるように
なるまで回復。

そんなある日、近所の郵便局で
「恋文募集」のポスターを目にしました。

字が書けるようになった喜びで
一気に書いたのが
「天国のあなたへ」でした。

 

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