台湾の老人が、ある日本人のために毎年慰霊祭を行う理由に魂が揺さぶられる...

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現在、台湾でコンサルティング業を
営まれる渡邊崇之さんが台湾人の
劉維添(りゅう・いてん)さんに
出会ったのは2008年の初夏のでした。

「今日はわざわざ台北より渡邊さんがお越しになられました」

当時86歳だった劉維添さんは、
台湾北部・獅頭山にある権化堂と
呼ばれる寺院にある位牌の前で
手を合わせていました。


※生前の劉維添さん

この位牌は、
第二次世界大戦中に台湾総督府警部と
して海軍巡査隊を率いた
廣枝音右衛門(ひろえだ・おとえもん)
さんを祀るものです。

劉さんが彼の位牌に向かって
語りかけていたのには、
深い理由がありました。

廣枝音右衛門さんとは

1943年、太平洋戦争中のフィリピンの
マニラで劉さんは、志願兵として
海軍巡査隊に入隊します。

ときを同じくして、日本海軍は戦争の
拡大により占領地の治安部隊である
海軍巡査隊を編成。

総指揮官として任命されたのが、
廣枝音右衛門さんでした。

廣枝さんは、聡明で優しい人柄から
部下に慕われていたそうです。

そして同年、台湾出身の警官2000名を
中心に編成された巡査隊を率いて、
マニラ南部・カヴィテに出征します。

2年後の1945年、フィリピンの首都・
マニラで後に「マニラの戦い」と
呼ばれる日本軍と連合軍の大規模な
市街戦が行われました。

兵力と物量で遥かに凌駕するアメリカ
軍を前に、絶体絶命のピンチに陥った
日本軍・・・。

万策尽きた軍司令部が下した命令は、
筆舌に尽くしがたい壮絶なものでした。

日本軍の命令に対して廣枝さんは・・・

窮地に陥った日本海軍マニラ防衛隊は
イントラムス要塞に全軍を招集すると
、棒地雷などを配り、敵戦車への
体当たりの命令を下したのです。

地雷を持って戦車に体当たりする、
つまり玉砕命令でした。

通常軍部の命令は絶対ですが、
ここで廣枝隊長は驚くべき行動に出ます。

太平洋戦争の戦局を予見していた
廣枝隊長は、劉さんが所属していた
部隊にこう宣言します。

「此の期に及び玉砕するは真に犬死如(し)かず。君たちは父母兄弟の待つ主地・台湾へ生還し、その再建に努めよ。責任は此の隊長が執る」

そう言って隊長は自身の頭に
拳銃をあて2発うち、自決。

廣枝隊長は軍部の玉砕命令を無視し、
部下の命を救う代わりに自らの命を
絶ったのです。

隊長の言葉には、

「米軍に投降してでも、とにかく生き延びて国に帰ってほしい」

そういった想いが
込められていたのではないか。

無事生還した劉さんは、
のちにそう語っていたそうです。

戦後、廣枝隊長の部下であった
台湾人警官らによって結成された
元台湾新竹州警友会は、

1976年に台湾仏教の聖地である
獅頭山に隊長の位牌を祀り、
それ以降、毎年慰霊祭が執り
行われています。

2007年からは、隊長に命を救って
もらった台湾人警官の最後の生存者と
なった劉維添さんが、毎年1度も
欠かさず、たった1人で慰霊祭を
続けました。

身を挺して部下である自分の命を
守ってくれた廣枝隊長への感謝の
気持ちを、劉さんが忘れることは
決してありませんでした。

出典元:imishin.jp
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わたしの周りにも戦争を語れる人が
いなくなりました。

いつか戦争体験者は日本から、
いなくなります。

戦争の悲惨さを語り継いでいくこと
は、とても大切なことです。

二度と戦争を起こさせない。

この記事がその一助になることを
願います。

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